子どもたちの可能性を最先端技術で未来に繋げる
プレゼントを渡した時の驚いたような嬉しそうな表情。
私は、その顔を見るのが嬉しくて学生時代から仲間と共に、教会の子どもたちへ自分たちができる最大の経済的支援を行ってきました。
ベトナムは大きく経済成長を遂げています。
旅行に来られた方はベトナムのハノイの都会的な雰囲気に驚かれますし、日本の人々が想像するような発展途上国のイメージとはかけ離れているかもしれません。
ベトナム政府も教育には熱心に力を入れています。
しかし、その一方でその力が及ばない子どもたちが存在するのは事実です。
私はクリスチャンです。
親戚や友人の家族を通し、カトリック教会が過程環境が厳しい子どもたちを集めて教育をしていることを聞きました。
とても素晴らしいことです。
私たちも何かしたいと思い、仲間と共に教会へ行きました。そこには、ベトナムの山奥で暮らす子どもたちの姿がありました。聞くと、その子たちは親も満足な教育を受けられておらず、成長したら労働力としてみなされ、読み書きもできないまま働くといいます。
それがまた連鎖し、その子どももそのまた子どもも同じ運命を繰り返してしまいます。
まさに貧困の連鎖です。
教会ではそういった環境の子どもたちを集めて教育を行っていました。子どもたちが読み書きや計算などの教育を受けている姿をみて、私は感銘を受けました。
どうにか、その子たちに幸せになってほしい。
私たちは仲間と共に小さいながらも学生にできる最大限の経済的支援を行うようになりました。
これで、きっと幸せになってくれる。
子どもたちが誇りを持って人生を歩んでくれると思ったのです。
けれど、それは間違いだったことに気が付きます。
なぜなら、何人かの子どもたちは常に誰かが助けてくれるのを常に待つようになってしまったからです。
自立できる子もいましたが、誰かに何かを支援してもらうことが当然になってしまった子たちはそれができません。
しかし、それは子どもたちの責任ではありません。
そうやって生きることが彼ら彼女らにとっては「当たり前」だからです。
また、教会ができる教育にも限界がありました。
読み書きや計算などは教えることができますが、教会は学校ではありません。 それが限界だったのです。
つまり、最低限の教育は受けられるけれども、それ以上の高等教育は受けることができないので、選べる職業が限られて結局低賃金の仕事に就くしかないのです。
生まれた環境でできることが違う。
教育にも、格差がある。
それは人類にとって大きな損失です。
私たちが実現させようとしている最先端技術は、最終的には子どもたちに最適な「才能」と「可能性」を教え、引き出してくれることを期待しています。
生まれた環境に恵まれなかったとしても、自分の未来にはたくさんの可能性があることを信じて、才能を活かして豊かな人生を過ごしてくれる人が増えること、子ども達の笑顔が増えること。
それを切に願っています。